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聖シルベストロ1世教皇証聖者  St.Silvester P. P.   記念日 12月 31日



 ローマのコンスタンチノ大帝がマクセンシオと戦った時のことである、敵方は味方よりも遙かに優勢であったが、大帝は突然空に光り輝く十字架が現れ、その上に「この印に依りて勝利を得べし」と記されてあるのを見、試みに十字架を描いた軍旗を作って陣頭に押し立てた所、果たしてローマ門外の戦いに大勝利を得、天下を掌握することが出来た。それは紀元312年10月28日のことであったが、彼はここに於いてキリスト教こそ真の宗教であると悟り、之をローマ帝国の国教と定めるに至った。かくてそれまで300年の長きにわたり行われた同国のキリスト教迫害も、全くそのあとを断つようになったから、時の教皇メルキアデスを始め、全聖会の喜びは筆舌に尽くせぬものがあった。
 やがてメルキアデスが崩御になると、代わってペトロの聖座に即いたのは、迫害中聖会の為多大の功労があった聖シルベストロであった。この人はローマ名門貴族の令息で、信心深い母ユスタに仕込まれて敬虔に生い立ち、更に学徳すぐれたカリノという一司祭に神学その他を学んで聖職者の列に加わった。
 するとちょうどその頃、ディオクレチアノ及びマクシミアノ両皇帝の、最後にして最も残酷な迫害が始まったが、シルベストロは天佑の然らしめる所か、不思議に厳しい官憲の目を免れ、捕縛拘引の憂き目を見なかった。で、彼はそれを幸いに潜伏の場所から窃かに囚われの信徒や処刑される兄弟姉妹を見舞い、御聖体を授け、或いは慰め或いは励まし、彼等の殉教の覚悟を堅めた。その熱心、その篤信、それを一般に認められたればこそ、彼はやがて教皇にも選挙されたのである。
 外部からの迫害が終息してほっとする間もなく、今度は聖会内部からの異端邪説に、シルベストロは心を痛めねばならなかった。当時殊に人心を惑わしていたのは、聖寵を有せぬ聖職者の授けた秘蹟は無効であると主張するドナト派と、聖子は最高の被造物であって天主ではないと言うアリオ派の異端とであった。故にシルベストロは先ずフランスのアルルに宗教会議を開いてドナトの邪説を奉ずる人々を破門し、次いで325年に小アジアにニケアにあの有名な公会議を召集してアリオ説を斥け、以て聖教を純粋に保つ事に成功した。それは彼の最大の功績として銘記せねばならぬ事である。但しシルベストロははニケアの公会議には自ら臨席しなかった。それはニケアに赴くべく、あまりに齢老いていたからである。
 彼は名代としてコルドヴァの司教ホシオを、又その介添え役としてヴィト及びヴィンセンシオというローマの司祭達を遣った。そしてアリオの異説に対し、救い主の天主性を更に明確に規定させた。曰く「我は唯一の主イエズス・キリストを信ず。天主の独り子にして凡ての世紀の前に父より生まれ、天主よりの天主、光よりの光、真の天主にして在し、創造られずして生まれ、聖父と一体にして万物これに依りて創造られ」云々。これがニケアの信経と呼ばれて、今もミサ聖祭の間に誦えられていることは読者もご存じの通りである。
 シルベストロに破門された異端者共は自分の非を認める代わりに、却って彼を逆恨みし、あられもない讒侮中傷を試みて彼の評判を損なおうとし、その外にもさまざまの方法で彼を苦しめたが、聖会の為には喜んで一命を献げる決意をさえ有する聖教皇には、そうした試練は物の数でもなかった。
 従来は長い迫害時代の悲しさに、御ミサの聖い祭も主としてカタコンブなどで窃かに行われたが、シルベストロはキリスト教信奉の自由を許したコンスタンチノ大帝の援助を得て、公に祭式を行う為諸々方々に立派な聖堂を建立した。世界に名高いあの聖ペトロ大聖堂や聖パウロ大聖堂もその最初のものは彼の御代に出来たのである。なおシルベストロは貧民救済などの博愛事業にも大いに力を尽くした。かように聖会の為幾多の功績を立てたシルベストロが、その報酬を戴く為天父の御許に招かれたのは335年12月31日のことであった。

教訓

 聖シルベストロは、迫害時代天主の御加護に由って無事なるを得た御恩をいつまでも忘れず、教皇となってからも人々の信仰を堅める為大いなる働きをした。我等も今この一年を終わるに当たり、回顧すれば天主から蒙った聖寵の数々あるのに感謝の情の油然と湧くを覚えるであろう。さらばその報恩の為我等もシルベストロに倣い、来るべき年には一層の熱心を以て一人でも多くの未信者を天父の御許に導くよう努めようではないか。